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拳正館

拳正館拳法とは

 拳正館拳法とは日本武術の一流派で、そこに私の経験や発見を加味して確立したものです。その武術的特徴は、一対一の場合だけではなく、複数の相手や凶器を持つ強力な相手に対応するための技法を有しています。相手を制するための方法を拳正館メソッドと呼び、その要素は五つに分かれます。まず技法的に三つあり、①剛柔剣の三法一体の技法であること、②その技法を使いこなすために六つの戦術要素があること、③その技法を極めるために法力‐ほうりょく(術理)があることです。そして技法の習得方法としての、④基本、相対、乱捕りなどの稽古方法があり、さらに高みに向かうべく⑤心技体の一致、特に上段者になれば心身一如を目指す修業方法があります。これらを今から順々に説明いたします。
 ちなみに拳正館の名の由来を申し上げますと、「心正しければ、即ち拳正しく、心邪(よこしま)なれば即ち拳邪なり」という故事からきており、常に心を正しくして拳を修めるという願いから拳正館と名づけました。武は身を守る術(すべ)として素晴らしいものがありますが、心が邪になければ単なる暴力に成り下がってしまいます。拳正を宗とし戒めなければなりません。拳法の修行を通して身心を鍛え、常に心正しく強くあろうと願います。心を正すことは自分との戦いとなり、畢竟武術の極意となります。人生においても日々修行です。

誰でも強くなれる拳正館拳法の技法

一対一はもちろん集団や凶器に対応する術

 拳正館拳法の技法についてご説明します。昨今では凶悪事件が頻発している状況で、いざという時は相手の攻撃から身を守りこれを制さなくてはなりません。しかし、攻撃は常に一対一というわけではなく、時には凶器や集団でかかってくることなどがあります。私達は武術を学んでいる限り、これらの攻撃に対応できなくてはなりません。当道場ではそのための方法や戦術を体系づけ、誰でも強くなることが出来る拳正館メソッドを確立しました。
 拳正館では、基本的に試合は行いません。また型稽古だけ行うものでもありません。試合を行わない理由を説明します。ある空手家のお話によると、試合などで鍛える武道は素晴らしいものがあるが、それに慣れすぎると複数相手や凶器には思わぬ不覚を取ることがあると言われています。なぜなら試合に勝つために一対一でしか練習をしないため、複数の相手にどのように動いて良いか戸惑い、不覚を取るからだそうです。また、ルールがなければ試合は成り立ちませんが、そのルールに順応しすぎて、かえって動きが限定されるそうです。たとえば顔面の突きがないルールに慣れすぎてしまうと、なかなかそれに対応できなくなるようです。
 対凶器ならばなおさらでしょう。柔道出身の警察官のほうがナイフで刺される確率が高いと本にも書いてありました。掴みに行って刺されるのでしょうか…。現代の武道では一対一の試合形式が本来の武道であると認識されていますし、正々堂々と戦い、試合を通して強くなり心も鍛えていくと考えられています。それはそれで素晴らしいことですし、何ら反対するものでもありません。しかし、先程の武道家のような悩みもあることも事実でしょう。
 また、型稽古を中心にしている武道家の悩みも同様です。型は先人の知恵が詰まっており大変素晴らしいものです。私も非常に重要な稽古方法であると思います。しかし、ある本のお話によれば、演武会で中国の武術の先生がお弟子さんに自由に殴ってきなさいと言ったところ、ボクシング経験者であるアメリカ人のお弟子さんは先生の要望に必死に応えようと一生懸命ジャブを突いたそうです。先生はジャブの速さについていけず、ボコボコに殴られてしまったそうでが、痛ましいことです。同じような悩みを知り合いの武道家も持っていました。
 さらに、やってみれば分かることですが、素人でも相手が二人、三人と複数になると対応は大変です。その動きの複雑さは二乗、三乗と膨らんでいきます。思わぬところから敵の蹴りが来たり、後ろを捕られたり、倒されたりもします。また、相手が凶器を持っている場合は特に恐怖心が大きくなるため、緊張して体が思うように動かなくなります。経験した方ならば良く分かることです。型や一対一の試合のようにはうまくいきません。

剛柔剣の三法一体技法を学ぶ

 それでは、対個人、複数、凶器、格闘技などのいろいろな条件を含む攻撃に対応するにはどのようにしたら良いのでしょうか。その答えは歴史ある古武術の技法とその応用にあると私は思います。要は先人の残した智恵の応用が大事で、それを実際に使えるか使えないかが重要だと思います。古来の武術は敵のどのような攻撃に対しても、向かい打てる方法を確立し、それを型(技)に残しました。しかし、今ではあまりにもスポーツ化したために、型(技)の応用がうまくできていないのが実情ではないでしょうか。
 また、現代では強力な格闘技にも対応しなければなりません。実は私は若いころ二年ほど、アメリカのサンフランシスコへ武者修行に行っていました。その時ボクシングジムへ練習に行っていたのですが、ボクサーのスピードの凄さは痛いほど感じました。中には信じられないくらいのパワーの持ち主がいます。例えばヘビー級ボクサーを想像してください。とにかく凄いですよ。私から言わせれば、2メーターを超える格闘家は反則ですよね。最初から強いのに、練習でさらに強くなりますから…。
しかし、そのような相手でもイザとなったら何としても身を守らなくてはなりません。また大事な人を守らなくてはならない場合もあるでしょう。その場合はもっと難易度が高くなります。その対応方法も含めて、拳正館では「三法(剛法・柔法・剣法)」を一体とした技法を用い、対個人、複数、凶器、格闘技などのいろいろな条件を含む攻撃に対処して行きます。

○剛法

 剛法とは突き蹴りなどによる当身術と剛の理を使う技術体系で、相手の突きや蹴り等の攻撃から身を守り、打突を使って反撃します。複数の相手の場合はなるべく一撃で制せなければなりません。そのためには強力な打突が必要となります。その強力な打突、つまり強い突き蹴りを身に着けるために剛の理を学び、古流の型を現代に応用して、誰でも剛力を発揮できるように稽古していきます。
 また相手の攻撃に対する受けや止め(抑え)、足や体を使ってかわす捌き方、反撃のための突きや蹴りや体当たり、押し倒しや崩しなどを、相対型の流れの中で学びます。初めは攻撃を受け、捌いて急所を攻めることから修行し、技術の向上に合わせて、隙をつく仕掛け技から、一瞬にして相手を崩す攻防一体の技法へ進む体系です。また剛力を用いる強力な打突から転換して、いかに柔の理を用いて術を行う、つまり力をほとんど用いずに、または相手を無力化させ効果的な打突を行う修行への転換を図ります。

○柔法

 柔法とはいわゆる柔術系の技法と柔の理を使う技術体系です。手や衣服を掴まれたときに瞬時に抜いて反撃する抜き技、相手の手などの関節を取る逆技、急所を攻めたり体制を崩したりして投げたりする投げ技や、関節などを決めて動けないようにする固め技、あるいは相手の隙をついてこちらから仕掛ける技などを学びます。もちろん敵の打撃によっては剛法をもって迎え、柔法をもって制す事もあります。剛柔一体の技法です。またこれらの技を通して柔の理や剛の理を使う方法を身に着けていきます。
 柔法の技の種類は限りなくありますが、微妙な手の形や攻める方向・角度などを実際に稽古相手に掛けなければ学べるものではありません。そこで最初は相対型としてお互いに技を掛け合います。そこから技術の向上に合わせて、一瞬にして相手を崩す攻防一体の技法や、相手を無力化させ傷つけずに制する方法へと発展していきます。稽古相手がいることに感謝しながら稽古します。

○剣法

 剣法とは剣や棒などの武器術、または剣の理を使う技術体系です。昔から「剣道三倍段」という言葉があります。武器を持つ剣道は素手の武道の三倍強いということです。このことは相手が棒でも持てばそれだけでこちらが不利になってしまうということです。このため拳正館では自分が素手の場合は、相手の木刀、短棒やナイフなどの凶器攻撃を捌き、これを制する技法を稽古します。
 また、逆に自分が武器を持っている場合は、相手の凶器や複数の人間などに対応できるように、剣や杖、短棒などを用いての型や応用技を稽古します。やってみると古武術の技がいかに有効か実感できますし、これらの稽古を通して素手だけの武道では体験できない間合いや間を知ることができます。また柔法や剛法の動きもよく理解できるようになります。修行内容はこれらの稽古から、技術の向上に合わせて棒や短棒、木刀を使って相手を崩す攻防一体の技へと進みます。

○剛柔剣三法は一つの体系

 剛柔剣の三法は一つの体系であり、どれひとつ欠けても術としては成り立ちません。例えば、腕をつかんできた相手をいきなり殴るわけにもいきません(場合によりますが…)。この場合は柔法が役に立ちます。また、複数の相手が棒やナイフで襲ってきたりした場合、こちらは素手での突き蹴りや関節技で対処するだけではなく、手近なものを武器として利用し身を守る方が合理的です。この場合は武器術(剣法)の稽古が必要であることは言うまでもありません。
 このことで分かるように、身を守るには剛法だけでも、柔法だけでも片手落ちだと思いますので、剣法をも用いた術で相手を制しなければなりません。私は以前、居合道に入門して基本的な刀の操法や型を習いました(これは大変良い修行となりました)。そしてこの刀の操法を逆に拳法の技に応用することを試みたのです。すると剛法・柔法の型(技)を少し応用しさえすれば、武器をそのまま使えることが分かりました。これは嬉しかったですね。このことにより技の理解もさらに深まったことは言うまでもありません。
 剛法での受けや突きの術理は、そのまま短棒などの武器を持っても同じ術理で使え、関節技にも使えるということは、剛法と柔法と剣法の術理が一体化しているということです。もしこれらが全く別々の動きをしなくてはならないなら、こんな不合理なことはありませんし、習得にも時間がかかって大変です。三法一体ならば、剛法が即剣法や柔法であり、柔法が即剛法であり剣法でなくてはならないのです。剣の動きが突き蹴りにも関節技になりますし、また、短棒などの武器を用いて相手に逆技や固め技などもできるのです。
 古の武士は日夜剣術の修行に励み、同時に刀を失った時などを想定して、刀を使わずに敵を制する方法なども修練したといわれています。これを「無刀捕り」といい、剣術の理合を基にして、当て身や関節技等を用い、武器で攻めてくる敵に対応していたのです。居合術の修行から、剣法と剛法、柔法の関連が理解でき、拳正館拳法の元は武器術から派生したということがよく理解できました。まさに総合性が真の武術の姿だったのですね。
しかし、時代が変わり現代では武術の細分化が進んで、柔道、空手などそれぞれルールを決め、よりスポーツ化することによって発展してきました。それはそれで素晴らしいことですし、青少年育成、精神修養の道を確立していると思います。しかし、私はルールを作り試合を中心とする武道よりも、本来の武術を追求し、その真の姿に近づきたいと願っています。そのために剛柔剣を合わせた三法一体の武術を追求しています。

拳正館拳法の戦術

 この三法を活用するために、拳正館ではいくつかの戦術を用います。実は私は今まで自分の行っている技法を理解し整理していたつもりだったのですが、先人が書かれた各種の書物(不動智神妙録、葉隠、弓と禅、五輪書、猫の妙術、臨済録など多数)や禅、神道などの東洋思想に関する中山正和先生や半田晴久先生の教え、そして武術家の近藤孝洋氏、山田英司氏が研究された英明な理論に触れたとき、私が今まで修行してきた拳法は個々の技は素晴らしくても、いかに体系付けられていないのがよく分かりました。
 そのため再度拳正館の技法を見つめ研究し直し、整理し統合した結果が拳正館拳法の戦術となりました。これで驚くほど技の精度が向上しましたし、技に隠された深い術理を理解することができました。この技や理論、そして後で述べる法力を伝承して下さった先人、先達、また恩師である故中尾泰昭先生には深く感謝申し上げます。それでは相手をより効果的に制する拳正館の戦術についてご説明します。

○戦術の六つの要素

 剛柔剣一体の技法で相手を制するための戦術は、以下の抑、捌、崩、掛、交、極にまとめられます。これらを簡単にご説明します。
 これらは順番が決まっているわけではありませんし、重なり合うこともあります。状況に応じて千変万化していきます。しかし、最初は代表的な攻撃に対する技を数多く稽古し、それを各自の得意技へと昇華していきます。

○武術は本来「禁じ手」ばかり 「武器」「急所」「環境」が重要

 当道場では技を学ぶ上で急所への攻めや、試合では反則となる禁じ手も当然稽古します。本来の武術は人を制するものですから、全部禁じ手といっても過言ではありません。まさか人は斬りませんが、相手を制し危機を脱するためにあらゆる方法を学びます。実は人間は弱点だらけですし、脆いものです。人の急所でいえば代表的なものに金的や眼があります。金的は男の最大の急所です。経験者はよくお分かりでしょう。さらに心理的な弱点もいろいろ考えられます。驚きや恐怖心はなかなか克服できないものです。
 また、傘やカバン、鍵など身の回りのものはなんでも武器になります。身を守るためにこれを利用しない手はありません。ペン先を相手の眼に向けるだけでも攻守は一転します。女性は特に武器は必要です。さらに重要なことは環境を武器化することです。階段や壁、電柱など利用できるものはなんでも利用します。道路はほとんど固いコンクリートです。転んで手を突いただけでも大変なのに、倒されたり投げられたりすると痛くて動けなくなります。
 身を守るための武術とは本来このようなものです。スポーツは正々堂々と戦うためのもので(それは素晴らしいことですが)、残念ながら泥臭く生命の危機から脱出する事には不似合いのようです。ある先生が「古武術と喧嘩術は共通する」とおっしゃいましたがよく理解できます。特に宮本武蔵などは試合においても兵法そのものです。あれほどの達人でありながら、あらゆるものを利用し、また人心を攪乱させて勝利しています。巌流島の決闘などはまさにこれですね。

法力(ほうりょく)について

 技を極めていくうえで重要なものが、身心を用いる数々の剛柔剣の術理です。これらを拳正館では総合的な拳法の力、すなわち「法力」と呼んでいます。技を本当に効かせるためには、この法力を理解し体得なければなりません。例えば強力な突きを身に着けるためには一般的には体重やパワーが必要でしょうが、そうではなく法力によって強力な突きを生み出すことができます。また逆に相手の力を無力化していくことができます。道場生からは不思議だといわれる技法です。これがあるから武術は面白いと思います。
 法力は体の使い方や意識を応用するものです。心の修行と、しっかりした技術の獲得と、技を行うことできる体の鍛錬の三つ、いわゆる心技体が一致しなければ、法力の効いた真の拳法の技法ができません。法力には初伝、中伝、上伝、奥伝、真伝とあり、初伝から上伝までは体の理を用いた法力です。奥伝、真伝は見えない世界の活用法で、奥伝は身体エネルギーを活用する気剣(拳)体一致の法力、真伝は特に心の理(心法)を用いた心技体一致、心身一如の法力となります。
 法力は各段階で倒、波、落、震、別、触、意、転などの方法を用いて技を極めていきます。また技を極めながら、逆に心と体を極めていくのです。説明が難しいので、体験するしかありません。理論を理解したほうが習得しやすいと思いますが、やはり、拳法の技はそれこそ技術ですので、身に着けるにはそれ相当の稽古量が必要なことは言うまでもありません。日々修行です。
 法力は一生をかけて目指すべきものですが、そこにばかり偏執すると、執着心の黒雲が現れ、心が乱れて現実から離れていきます。いわゆる自分が達人になったと勘違いをして傲慢になったり、技が掛からない人に無用な敵意を抱いたりするようになります。結局こうなると修行の妨げになりますので注意が必要です。これを防ぐためには、最初からはこの法力を求めるのではなく、まずは現実レベルの実力を身に着けること、そして先人の教えに学ぶことが大事と考えています。その修行の結果として法力が身についてきます。

稽古方法について

「基本稽古」「相対稽古」「乱捕り稽古」そして「法力稽古」

 拳正館では三法一体の技法、戦術を身につけるために「基本稽古」「相対稽古」「演武稽古」と「乱捕り稽古」を行い、法力を身に着けるための「法力稽古」を行っています。これらはそれぞれ相関関係にあり、上達すれば全てに法力が影響してきます。

○基本稽古

 基本稽古は数々ありますが、最初に呼吸法を交えた特殊な運動を行います。この運動は体全体に意識を行き渡し、さらに技に必要な全身を連動させる方法です。次に中心を掴む練気手という稽古や片手押し崩しなどを行い粘り強い体を作っていきます。そして、各種の突き、蹴りや受け、体捌き、移動稽古、受け身やミット突き、素振りなどを行い基本の体作りも同時に行います。これらの基本稽古の目的は体の柔らかく使うこと、中心軸を作ること、丹田を養うことなどに置いています。
 さらに基本の型や飛燕の型などの単独で行う型を稽古します。単独型は突き蹴りや受け、足捌きなどを学ぶのに適しています。ただし拳正館では深い術理は、単独型よりもむしろ二人で行う相対型にあると考えているため、相対型の稽古を重要視しています。一人で行うものだけが型ではなく、二人で行う型もあるとご理解ください。もちろん相手がいるものと思って、相対型を一人で行う型稽古も行います。本来型稽古はそういうものだったと思います。

○相対稽古

 相対稽古は一対一や複数、凶器に対する剛柔剣一体の技を学びますので単独型よりも二人でお互いに技を掛けあう相対型が中心です。そのほうが間や間合いを取る稽古にもなりますし、繰り返し稽古することによって体も練れてきます。特に柔法などは実際に相手がいないと稽古になりません。微妙な手の感覚などは単独型では無理です。
 技は最初のうちは速さを競うことは重要ではなく、正確性を重要視します。守破離の守の段階です。特に柔法などはゆっくりと稽古することが肝要です。それがいつの間にか早く動けるようになるから不思議です。重複しますが、この相対型の技は同じ動きで武器を使えるものとなっています。つまり素手だけではなく、何でも身近なものを持てばそれが武器術として応用できる技になっています。また、同じ動きで複数相手にも対応できるようになっています。
 さらに相対型の連続性を学ぶために演武というものを稽古します。演武は剛柔剣の技を使って、お互いに(あるいは三人の人)と攻めたり守ったりしながら行います。拳法で重要な流れを学ぶのです。特に多人数の相手となりますと、技の切れ間が命取りとなります。また演武では技の流れだけではなく、不思議なことに演武を行う相手と心の調和出来なければうまく出来ないようになっています。不安や独りよがりの心では演武が乱れてきます。お互いを認め合う和の心は拳法の極意の一つです。ですので演武も重要な稽古の一つです。

○乱捕り稽古

 乱捕り稽古は、技の稽古と違って相手に自由に攻めてもらい、それに対し技を駆使して相手を制する稽古です。乱捕りは大きく分けて限定乱捕りと自由乱捕りの二種類があります。
 限定乱捕りとは、たとえば上段突きの単独攻撃やナイフの中段突など、攻撃方法を限定して相手に攻撃してもらい、それに対してこちらは技を駆使して対応し制します。またソフト短棒を使用してお互いに打ち合う乱捕りもあります。チャンバラのようで面白いですよ。
 初心者にとって限定乱捕りは、攻撃技やスピード調整を決めているため対処しやすく、技を身に着けるのに適しています。これらの乱捕りを一対一や一対複数、あるいは二対複数などで行います。また、状況によって自分がいる環境を利用したり、何とか現状から逃れることを目的にしたりして稽古を行います。
 最初は相手が二人になると固まって動けない人でも、慣れてくると相手の後ろを捕ったり、押して別の人にぶつけたり出来るようになります。もちろん、うまくなれば限定条件をどんどん解いていき、武器を変えたり、人数を増やしたりしていきます。また、環境条件(街中、階段、原っぱなど)を決めて今の自分の立ち位置(子供同伴など)を考え、状況に応じて対応する方法を学んだりします。最終的にはお互い自由に動く自由乱捕りを目指します。
 時には希望者だけにグローブやプロテクターなどを着用して、安全に打撃の間と間合いを掴むための稽古も行っています。実際に防具なしで行う稽古よりも明らかに感覚が違います。もちろん最初からガチンコで行うことはありません。それよりも学んだ技が出せるかどうかが重要です。最初はそのために限定乱捕りを活用します。防具を付けているので遠慮なしにくる突き蹴りにどう対応するのかが課題となります。そして慣れてくれば自由乱捕りへと進みます。

○法力稽古

 この稽古方法は、心技体の一致の技術理論と心身一如の体験稽古から組み立てられていますが、簡単に言えば基本や相対型、乱捕りで法力を発揮できるかどうかということです。初伝法力から真伝法力に至るまでの拳正館拳法の核心部分で、倒、波、落、震、別、触、意、転などの方法を用いて技を極められるかどうかが課題となります。説明は割愛します。

○理入と行入について

 禅の修行方法には理入と行入のふたつがあります。つまり先に理論から学び実践する方法と、実践から入りあとで理論を体得する方法とがあります。これは何の世界にも通ずるものだと思います。どちらが良いとか悪いとかではなく、理入を選ぶか行入を選ぶかはその人本来の質によります。いや質というよりもどちらが好きかということでしょう。昔の武術修行はほとんど行入一本槍で、先生が技を掛けて、あとは弟子達が稽古しながら考えて体得するという方法が一般的でした。
 今は時代が変わり、理論から学ぶ方式も当たり前の時代になりました。理屈が好きな西洋の影響です。これらのことを鑑み、拳正館拳法の技の習得に際しては、理入行入どちらでも出来るように、技の理論(術理)の説明もしっかり行いますし、道場生の質に合わせて濃淡を付けて指導しています。しかし、法力の奥伝、真伝に関しては技が出来ないと、いくら説明しても分からない世界ですので、有段者になってから段階的に教えています。

心・技・体の一致を目指す

 先程少し述べましたが、三法一体の技法を生きたものにするためには「心・技・体の一致」が必要です。この心技体が一致した時に初めて私たちが求めている武(敵の攻撃を止める事)を体現できるのです。つまりいくら技を磨いても、いざという時に臆病風に吹かれていてはだめですし、また足元もおぼつかないような体の状態ですと話にもなりません。技だけでなく心と体も重要であることはお分かり頂けると思います。それでは拳正館でいう心技体一致を簡単にご説明します。技については先に説明しましたので、体と心についてお話いたします。

○体について

 拳法を行うには、やはり基礎的な体作りが必要です。ある程度鍛えないといけません。しかし別にボディービルダーのようなムキムキの体を作れといっている訳ではありません(まぁ、それはそれで十分強くなれますが…)。
 少し述べましたが、拳法を行うために重要な体作りとは三つあります。①体の中心軸を作ること、②丹田(特に臍下丹田)を作ること、そして③ゆるんだ体を作ることです。ゆるんだ体とは別にブヨブヨという意味ではありません。力まないで技を使えるかどうかということです。つまり、軸がしっかりした柔らかい動きができ、なおかつ臍下丹田の威力が出せる体を作るということです。そのためには基礎となる足腰などの鍛錬と、素振り、棒振り、呼吸法、整体法(他にもいろいろありますが)などは必須です。これらの鍛錬により、私たちのいう拳法が出来る体(法力体)を作っていくことを目指します。この体ができてはじめて拳法の術理、法力を発揮できるのです。

○心について

 実戦で一番重要なことは不安や恐れ、迷いをいかに克服するかということです。例えば恐怖心にとらわれると体が固まってしまい人間は何もできなくなります。書物によれば、本来これらの心理は自分で作り上げた妄想なのだそうですが、なかなか払拭するのは難しいものです。
 古来の伝書によれば、武士はこの不安や恐れ、迷いを克服する方法として禅を学んできたとも言われています。もちろん禅はこれらの心理面の克服法だけを学ぶためにあるのではありません。本来の禅は崇高で命がけで悟りを開くためのものです。また、本来の武術の目的は修行を通して真実の自分を得るものです。自分の中にある本当の自分を自覚するとでもいうのでしょうか。自己本来の面目です。
 拳正館では禅道場のように座禅は組みませんが、道場外の心の稽古法として、半田先生の日本古来の神道を含む神儒仏の教え、創造工学の中山先生が提唱された禅の「莫妄想」の方法を日頃の社会生活で実践して頂いています。もちろん私も修行中です。禅と武術このくだりは「弓と禅」という書物にも詳しく書かれていますし、「不動智神妙録」や「葉隠」などをお読みになればその世界に感応できます。
 武術家の近藤氏によれば「武術の本来の奥義は目に見えない世界にある」、「武術も上のランクになると、武術以外のもので構成されている」と看破されています。禅の世界も含め、この目に見えない世界、武術以外のものを使えることこそが、武術の真の実力となり達人への扉を開くものなのです。針ヶ谷夕雲、松林左馬助などの達人の世界です。

そして心身一如の世界へ

 中山先生によれば、禅の修行が出来てくると不思議な現象が起きるようです。物事がうまくいくようになり、物理学でいう時間歪み(双子のパラドックス)の状態が起きたりするそうです。洞察力とか武術の「先」などといわれるもので、相手の攻撃が事前に分かるようになったり、相手の動きが非常に遅く感じたりする現象です。こうなれば機先を制することができます。易経に言われる「機を制するはこれ神なり」の世界です。武術の世界だけではなく、実社会においても最終的にはすべてがうまくいくようになるそうです。これこそ達人の世界でしょう。修行はこのレベルまで行きたいものです。
 また「天狗芸術論」や「猫の妙術」「大阿記」「不動智神妙録」「弓と禅」等々まだまだたくさんある武術書や、禅を含む神儒仏各種の書物など、学ぶべきものはたくさん有ります。それこそ一生ものです。これらは凄く重要で、私と高段者にとっては永遠のテーマであることは事実ですが、初心者はまず充分に稽古をして実質的な強さを身に着けるのが先だと思います。そこから身心一如の勉強をされることをお勧めします。これらの書物の内容はある程度の実力を付けてこそ理解できるのだと思います。最初はチンプンカンプンだった内容が、稽古を積み月日がたって読み返してみると、分からなかったことがよく理解できるようになったり、感じ入るところが変わってきたり、ポンと腑に落ちることが出てきます。奥が深くて楽しいですね。

終わりに

以上が拳正館拳法の概略です。昔から日本では道を学ぶ方便として芸事があるといわれています。「弓と禅」にあるドイツ人の哲学者であったオリゲン・ヘルゲル氏が、弓の修行を通して道を学んだように、私も拳法の修行を方便として、道を学び、真を尋ね、心を練りたいものです。求道とは本来生涯かけて行うもの。まだまだ私も道半ばです。焦らず、気負わず、日々精進してまいります。宜しければ一緒に稽古しましょう。
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